これから伸びると勝手に考えている日本の医療株を知る企画⑨・・・大日本住友製薬

医療株特集

 みなさん、こんにちは😊

 6月最後の週末、いかがお過ごしでしょうか?

 6月早かった・・・わたしは一つ歳をとり、孫もできた月だったので感慨深かったですが😊

 そして、一年で最も日中の時間が長い夏至が21日でしたが、24日と勘違いしていて、これからだんだ日が短くなっていくのかとちょっと残念な気持ちにもなりました。

 だんだんと暑い季節に近づいています。

 これからやってくる猛暑に備え、梅雨時期で暑さに体を十分ならして置く必要がありますね😊

 知りませんでしたが、台風もすでに5号が発生しているようです。

 今回は上陸しませんが、これからの季節気をつけていきたいですね。

 そして、ついに来月はオリンピックが開催される予定です。

 世界的に流行している感染症の中でのオリンピックというのは、過去に開催されたことは、ないのではないでしょうか💦

 それだけに、いろいろな意味で、今までに見たことのないオリンピックになりそうです💦

 さて、話を本題に戻します。

 今回の医療株を知る企画の9回目は、大日本住友製薬です。

 みなさん、この企業はご存知ですか?

 大阪の会社なので西日本地区では認知度が高いように感じますが、わたしはこの企画をやるまではあまりしりませんでした(大日本住友製薬様すいません😓)

 ただ、会社の成り立ちを勉強していくいちに、ハマりました。

 調べると、この製薬会社は、日本の製薬会社の祖というべき存在でした❗

 それはいったいどういうことなのか・・・早速内容について調べていきましょう😊

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大阪の道修町・・・そこは日本の薬作り発祥の地だった

 大日本住友製薬の成り立ちをウィキペディアで調べると、明治時代にできたことが分かりました。

1897年(明治30年) ◆「大阪製薬株式会社」として会社設立。

 1898年(明治31年) ◆「大日本製薬合資会社」を企業合併し、社名を「大日本製薬株式会社」に変更。

 1908年(明治41年) ◆「大阪薬品試験株式会社」を合併。

 成り立ちの説明は、たったこの3行だけ。

 なので、深堀りをするため明治30年の大阪製薬株式会社について、いろいろ調べ行くていくうちに、何度も、大阪道修町という住所が出できたので、次の疑問が沸き起こりました。

疑問その①・・・大阪道修町っていったいどんな町なの?

疑問その②・・・この企画で勉強してきた製薬会社のいくつかは、この町に本社があるが何故?(武田製薬、塩野義製薬)

 まず、道修町についてウィキペディアで調べると、以下の内容がでてきました。

寛永年間(1624〜1645年)道修町1丁目に堺の商人である小西吉右衛門が薬種屋を開き、道修町はくすりの町として歩み始めた。

・1722年(享保7年)、124軒の薬種業者が株仲間として江戸幕府から公認を受け、薬に値段を付け全国に売り捌くことが認められた。

・幕府が公認に至った背景として、当時の薬種の原料である中国から輸入された唐薬種や日本で採れる和薬種は、適切な品質であるかどうかを見分けるのが非常に難しかったため、知識をもつ薬種業者の検査が必要とされていたことが挙げられる。

 明治時代になると西洋医学が広まり、薬舗夜学校が開設され、薬種業者は西洋医学の勉強も始めたという。

・薬舗夜学校は、現在の大阪大学薬学部や大阪薬科大学のもととなった。今でも、周囲には日本を代表する製薬企業の本社などが立ち並び、研究を行っている。これが、道修町がくすりの町と呼ばれるゆえんである

 この内容で道修町が薬に大きく関係する町ということが、分かりました😊

 400年前に、道修町で小西吉右衛門という人物が、薬屋を開業したのが始まりで、約300年前の江戸時代に、幕府公認の薬屋組織ができたとのことです。

 いつの時代も本物とニセモノは存在し、見分ける知識や経験は必要とされていたということです💦

 大日本住友製薬にいつ繋がる?という方、もう少々お付き合いください😥

薬作り発症の地といわれる所以について

 先の疑問その②・・・この企画で勉強してきた製薬会社のいくつかは、この町に本社があるが何故?(武田製薬、塩野義製薬)についてですが、

 武田製薬を設立した武田長兵衛、塩野義製薬を設立した塩野義三郎は大阪道修町の有力薬業家です。

 この他の有力薬業家には、のちの田辺製薬(今の田辺三菱製薬は2020年に上場廃止)を作った田邊五兵衛、また、小野薬品を作った小野市兵衛も含まれていました。

 道修町が日本の薬に関係する要所であったこと、また、この地で働いていた薬事家の中には今の日本を支える大手製薬会社を作った人物がいたことを理解いただけたと思います。

日本の薬業界が発展した明治時代とその背景について

 江戸時代の幕府は、薬業を営んでいた道修町の商人達が、国内で流通する薬の決まりごとについて株仲間というカルテル(独占販売権利を持つ組織)を作ることを、薬に関する知識を持つという理由から公認していました。

 時代は明治になり、政府は、西洋医学、特にドイツ医学の導入を決定し、衛生行政機構、西洋医学に基づく医学教育と医師開業免許制度、医薬分業など医療および衛生行政に関する幅広い事項が含まれる「医制」を発布することで推し進めます。

 また政府は、ドイツ留学で西洋医学を学び、喘息などに効果があるエフェドリンを発見した長井長義を代表とする、半官半民の大日本製薬合資会社を設立します。

 これにより、医療用医薬品の主役は日本や中国の薬から、西洋に切り替わり、この取り扱いに際しては、「薬舗開業試験」制度が布達され、以後この試験に合格しない限り、新規開業、事業承継が出来なくなりました。

 そして1886(明治19)年、国内における医薬品の品質企画書である日本薬局方(にほんやっきょくほうは、日本国内で定められている、厚生労働大臣によって公示される文書。 医薬品の品質・純度・強度の基準が定められているほか、各医薬品の有効性を問う試験法や判定方法が掲載されている)が公布され、製薬事業の基盤が出来上がりました。

道修町で苦しみの中から生まれた日本の医療体制

 政府から株仲間制度を廃止され、独占販売権を失った道修町の薬業界は混乱します。

 薬の取り扱いには試験に合格しなればいけないこと、また、輸入する西洋薬の新薬や効能について、日本薬局方に記載がなく、試験検査も不十分なまま流通していたこと、西洋薬は庶民が買える価格ではなかったことから、対応する組織を作っていくこととなります。

 試験合格に必要な人材を教育するための夜学を薬事家有志でつくりますが、これがやがて大阪道修薬学校となり、大阪薬科大学へと発展します。

 また、薬事家14名で薬を試験する大阪薬品試験会社を設立します。

 そして、医薬品の検査機関が設立された後も、日本の製薬事業は十分に発展せず、医薬品の大部分は輸入に依存しており、僅かな国産品も品質が悪く、激しい価格競争に晒され、不良薬品が横行していました。

 ついに、18967(明治30)年、道修町の薬業者ら21名が設立発起人となり、優良医薬品の国産化を目指して大阪製薬株式会社を設立しました

 大阪製薬株式会社の発起人リストは以下の通りです(赤字は現在の製薬会社創設者)

●発起人リスト
日野九郎兵衛、宗田友治郎、小西久兵衛、乾利右衛門、小西儀介、小野市兵衛、田畑利兵衛、白井松之助、上村長兵衛、福田清右衛門、石津作次郎、武田長兵衛、谷山伊兵衛、春元重助、塩野吉兵衛、田邊五兵衛、小西喜兵衛、塩野義三郎、小寺幸次郎、七理清助、小磯吉人

 ここで、ようやく繋がりました😥

 赤字の発起人達は、当時の日本政府の制度に従う一方で、これを補足する形で様々な活動を手弁当で行っています。

 まさに、将来の日本の医薬のための貢献です。

 歴史はここまで、これから大日本住友製薬の内容についてみてみましょう😊

大日本住友製薬を知る

 いつもの分析表で内容を見てみたいと思います。

1.売上高・収益・研究開発費・時価総額

・売上は5,159億円と国内第7位(2021年)です。税前の利益率は15%の約778億円。

・研究開発費は970億円と、他の製薬会社同様、利益以上を開発費に使用しています。

・時価総額は9,247億円と、国内第11位の規模です。

2.PERとPBR

・PERは16.42倍、PBRは1.59倍です。

・6月25日現在の日経平均のPERは14.08倍、 PERは1.25倍なので、紹介してきた企業と比較し、割安株と言えます。

3.技術

・2019年、非定型抗精神病薬「ロナセンテープ」の製造販売承認取得。これは世界で初めての抗精神病薬のテープ製剤。

ロナセン®は、統合失調症の陽性症状(幻覚、妄想など)のみならず、陰性症状(情動の平板化、意欲低下など)に対する改善作用が示されています。

・iPS細胞による再生医療の分野で大学など研究機関と連携し、細胞を大量培養できる工場を持っているのは世界で大日本住友製薬だけ。

・創薬開発の初期段階をコンピューターで行う、インシリコ技術にも取り組み、開発の効率化迅速化を研究しています。

 それでは、SBI証券でここ10年間の株価をTOPIX(ピンク)と比較してみてみましょう😊

 2019年の大きな値上がりの動きは、先に記述の箇所で説明しました、世界初のロナセンテープの開発が影響していると思われます。

 株価は大きな上げ下げを繰り返しており、様々な課題があるようですが、なんとか頑張って欲しいものです😥

まとめ

 動乱の幕末から明治日本の医薬界を支えた道修町の薬事家達によってつくられた大日本住友製薬。

 同社のスローガンは、Innovation today, healthier tomorrows・・・意味は、従業員一人ひとりが、常に自らの変革(=Innovation) を追求しながら、新たな発想や高い研究開発力により、革新的な新薬を社会に届けることで、患者さまとそのご家族が、より健やかに自分らしく(=healthier)過ごせる日々を実現するとのこと。

 まさに、設立の祖となった大阪製薬株式会社の発起人たちの志そのものだと思います。

 今年の5月次のようなニュースがありました。

大日本住友製薬の野村博社長は5月12日、20年度決算・中期経営計画2022改定に関する記者説明会で、社名を「住友ファーマ株式会社」(Sumitomo Pharma Co., Ltd.)に変更すると発表した。変更は2022年4月1日。6月24日に予定する定時株主総会において、定款の一部変更に関する承認が条件となる。 これに伴い連結子会社についても一部を除き商号が変更される。

 変更理由として、次のステージとして頑張るために、少しブランドを変える。グローバルでも統一したブランドにした方が良いのではないかというで、“住友”という名前を使うことになったと説明した。

 確かに社長がおっしゃるとおり、住友というネームバリューはあると思います。 

 ただ、21人の発起人達の思いから日本住友製薬の成り立つについて考えるとき、個人的には少し寂しい気持ちになりました💧

 武田製薬のグローバル化もそうですが、時代に合わせた変化の必要だと思いますが、変えるものと、変えてはいけないものがあるとするならば、変えていはいけないものは、創業者の精神だと思います💦(偉そうですいません)

 そうは言うものの、この会社についても、個人的な医療株インデックスには入れ、応援していきたいと思います。

 今回はいかがでしたでしょうか😊

 いつもより、調べるボリュームが多く、長くなり、読みづらくなったのかなと反省しています💦

 今回も最後までお読みくださりありがとうこざいました。

 次回もどうぞお楽しみに😊それではまた(^_^)/~

 

 

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